京都(みやこ)の大殉教(2017年9月)
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皆さんは、1619年10月6日に火あぶりの刑によって殉教した、 15歳以下の子ども11名を含む52名の殉教者を記念して建てられた、 六条河原の「殉教の碑」をご存知でしょうか。
この碑が建立されたのは殉教から375年を経た1994年でした。 碑の下には白い壺が埋められており、中には52名の名前を記し赤いバラを 飾ったリボンが入っています。完成時に中山正美画伯の絵葉書や結城了悟神父著 「京都の大殉教」の本、殉教碑建立のために献金を送ってくださった全国の寄付者名簿 などを一緒に納めて、建立委員が祈りを捧げていた折、 晴れ渡った空から突然雨が降ってきて、皆驚いてしまいました。 もしかすると、400年近く忘れられていた殉教者たちの感動の涙だったのかもしれないと 思うほどでした。 記念碑は田中健一司教によって祝別されました。
当時、キリシタン迫害時代の日本の三大殉教は、 京都(1619年52名)と、長崎(1622年55名)、江戸(1623年50名)の三つです。 これら三つの殉教は火刑でしたが、京都の殉教者が他と違うのは、 宣教師や修道者は一人もおらず、皆一般信者だったことです。
列福までには長い歳月がかかり、長崎で列福式が行われたのは 2008年11月24日です。この列福運動には1981年に来日されたヨハネ・パウロ二世の 「日本は殉教者の国であり、他にも殉教者がいるのでは」という言葉が列福促進に 拍車をかけたということです。
さて、52名が捕らわれた経緯は、当時伏見に 滞在していた徳川秀忠の「キリシタンは火あぶりに」という命令によるものでした。 幼い子どもが含まれていたということも京都の殉教者の重要な点です。 テクラ橋本始め、数人の婦人が我が子と共に火刑に処せられました。 燃えさかる炎の中でテクラ橋本は「辛抱しなさい、すぐ天国で会えますからね」と13歳の 娘カタリーナを励ましたそうです。
聖パウロ三木(2017年2月)
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キリシタン武将、三木半太夫の息子。安土セミナリヨの第1期生。 22歳でイエズス会のイルマン(修道士)となる。秀吉の禁教令により 大阪で布教活動をしているときに捕らえられ、京都市中引き回しの後、 長崎西坂で殉教。日本二十六聖人の一人として、 遺骨は日本二十六聖人記念館に納められている。 1862年、教皇ピオ9世によて二十六殉教者の1人として列聖された。
聖マキシミリアノ・マリア・コルベ司祭殉教者(8月14日) (2017年8月)
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コルベ神父は1894年、ポーランドの織物職人の 息子として生まれた。13歳でフランシスコ修道会神学校に 入り、その後7年間、ローマに留学し哲学と神学を学ぶ。 そこで知り合った仲間と「無原罪の聖母の騎士信心会」を設立。 25歳で司祭叙階の後、母国に帰り、3年間クラクフの大神学校の教授を務めた。
1927年には「無原罪の聖母の騎士」小冊子を発行し宣教を開始。 東方宣教をめざして、1930年36歳の時にゼノ修道士ら5人と共に長崎に上陸。 聖母の騎士修道院を開き、月刊誌「聖母の騎士」を発行、 また大浦神学校では哲学を教えた。 1937年、母国の修道院長に任ぜられ日本を去る。
第二次世界大戦下、ナチスによりアウシュビッツ強制収容所に送られる(囚人番号は「16670」)。 そこで妻子ある士官の身代わりとなり、他9人と入れられた餓死牢でも神に祈り、歌った。
苦しみの中で皆を励まし続け、さながら聖堂となった「死の地下室」で仲間を送り、 最後は自ら差し出した手に注射され永遠の眠りについた。47歳だった。
1982年10月10日にヨハネ・パウロ二世により列聖された。
2017年8月
聖テモテ・聖テトス(2017年1月)
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2人は聖パウロの弟子であり、協力者でした。テモテは、リストラ(現在のトルコ)でギリシア人の父とユダヤ人の母を持ち、信仰深く育てられました。パウロの第2回宣教旅行に同行し、マケドニアに行き、その地方の教会のために力を尽くしました。またパウロの第3回宣教旅行の時にもパウロを支え、フィリピ、コリント、エフェソで宣教しました。その後、テモテはエフェソ教会の初代司教となって活躍しましたが、ローマ皇帝ドミティアヌスのキリスト教迫害下に殉教したと伝えられています。
テトスは、アンテイオキア(現在のシリア)から、パウロとバルナバと共にエルサレムの公会議に出席した、とガラテア書に書かれています。彼は、パウロによってコリント教会に派遣され、
当時分裂問題が起きていた教会の和解に努めました。温和な人柄で、パウロがテトスによってどれだけ慰められたかは、コリント教会への手紙に記されています。その後、テトスはクレタ島の司教となり、ダルマチア(現在のユーゴスラビア)に派遣され、パウロの殉教後は、クレタ島で最後まで宣教活動をしたと言われています。
レンブラントの絵から知る神のいつくしみ(2016年11月)
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8月15日は何の日?(2012年12月)
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「8月15日は何の日ですか」と聞かれると、日本では多くの人がお盆とか終戦記念日を思いうかべるのではないでしょうか。
カトリック教会暦では、8月15日は「聖母の被昇天」の祭日です。聖書の中では聖母の被昇天に関して直接記されてはいませんが、教会は何世紀にもわたって伝えられた伝承(聖伝)を、聖書とともに大切にしてきました。かつての司教たちも一致して、これを神の啓示による真理と認めてきました。
時を経て、この教義は1950年に「聖母の被昇天」として教皇ピオ十二世が全世界に向けて公布し、以後大切に祝われるようになりました。マリアは、からだも魂もともに天に上げられ、死後においてもキリストの復活と栄光にあずかっているのです。
「聖母の被昇天」への信仰は、マリアだけが特別な存在であると言い表すものではありません。それは、神へと昇る全人類の救い、キリストを信じるすべての人たちの救いへの希望を表現するものです。
ミサと祭器(2016年6月)
初代教会のキリスト者たちは、主が復活された週の初めの日を「主の日」と呼んで大切にし、パンを裂くために集まるようになりました(使徒言行録20・7)。その呼び集められた共同体が教会(エクレシア)です。教会は2000年間ずっと、主の日に集まって感謝の祭儀(ミサ)をささげ、「ことばの食卓」と「いのちのパンの食卓」という二つの食卓における復活した主との出会いを大切にしてきました。祭壇には、必ず食卓布とコルポラーレ、十字架とろうそくが備えられます。祭器の中で特に大切なのはカリスとパテナです。
ミサで使われる主な祭器には以下のようなものがあり、名称の多くはラテン語です。
1 ぶどう酒、水を入れる容器
2 カリス(聖別されるぶどう酒をいれる杯)
3 灌水器(祝福された聖水を入れる聖水器と聖水を振りかける灌水棒からなる)
4 鐘(聖別の前やパンとカリスが会衆に示される時に鳴らす小鐘)
5 コルポラーレ(聖体布。カリスやパテナの下に敷く、十字架のしるしのある四角い白い麻布。)
6 ピクシス(聖体容器。聖体を保存するための容器)
7 香炉(炭を入れ、香を焚く)
8 香舟(香入れ)
9 パテナ(聖体皿)
10 パラ(カリスのほこりよけの四角い覆い)
11 テカ(聖体の小型容器。病人などに聖体を運ぶために用いる)
12 司祭の手洗い用小鉢
13 プリフィカトリウム(清浄布。カリスやパテナを拭くために用いる白い麻布)
14 祭壇布(祭壇を覆う厚手の白い布)
15 マヌテルジウム(司祭が手を洗った後に拭くための布)
主の過越(2016年3月)
2016年の3月24日(木)から27日(日)の間を教会は、年間典礼暦の頂点である「過越しの聖なる3日間」として記念し祝います。
この「過越」(ギリシャ語=パスカ)は、もともとは「ある状態から別の状態へ移行しえいく」
と言う意味の言葉であり、モーセによる出エジプトの出来事に由来します。
出エジプト記12章にあるように、400年間エジプトで奴隷状態であったイスラエルの民は、出エジプトの出来事によって民族的に救われました。脱出の夜、主はエジプトの初子をすべて撃たれましたが、屠られた子羊の血が家の柱と鴨居に塗られたイスラエル人の家は過越して初子を撃たれませんでした。それを記念するために、毎年過越の羊を屠り、過越の食事をして祝うのが、ユダヤ教の過越祭です。
イエスは過越祭の時に十字架にかけられました。キリスト教では、この出エジプトの出来事に、イエスの「受難、十字架、死、復活」という出来事を重ねて「聖なる過越」として記念し祝っています。
トマス・アクィナス司祭教会博士(1月28日) (2016年1月)
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トマスは、北イタリア・ロンバルディアの貴族の家に生まれ、幼いころからベネディクト会のモンテ・カッシーノ修道院で教育を受け、ナポリ大学で学び、司祭になることを決意した。トマスは、設立されたばかりのドミニコ会に入ろうとしたが、両親や兄弟に猛反対され城に閉じ込められたりもした。しかし、初志を貫いてドミニコ会に入り、パリとケルン(ドイツ)で哲学、神学などを修めた。内気なトマスは、学生仲間から「だんまり屋のシシリー牛」と軽蔑されたが、教授であった聖アルベルトは、彼の奥深い才能を見抜き、その後も2人は固い友情で結ばれていた。
やがてトマスは、当時最も優れた学者となり、パリやイタリアの大学で教鞭をとった。当時のヨーロッパ世界には、ギリシャ哲学者アリストテレスの思想が入り、ある学者はその思想をキリスト教に反するものとして否定する、という思想的混乱が巻き起こっていた。
トマスは、アリストテレスの思想のある部分を取り入れ、キリスト教に合った哲学と神学の書を著わした。それが、不朽の名著とされている「神学大全」である。
トマスは、1274年にリヨン公会議に赴く途中、病に倒れ亡くなった。彼は、学生・学校の保護者とされている。
悲しみの聖母(9月15日) (2015年9月)
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イエスの生涯が受難の連続であったように、マリアの生涯にも喜びと共に多くの苦難がありました。シメオンは、幼子イエスの奉献の際、マリアに「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」(ルカ2・35)と預言しました。
古くから教会は、聖母の生涯をいろいろな形で記念してきましたが、「悲しみの聖母の祝日」は15世紀にドイツのケルンで始まり、1817年に教皇ピオ7世により全教会の祝日として定められました。
このミサではイエスの”死の悲しみ”を中心としますが、昔から信徒たちは、他の出来事も加えて、聖母の”7つの悲しみ”を以下の通り黙想し祈ったと言われています。
(1)シメオンの預言
(2)エジプトに避難
(3)神殿でイエスを見失う
(4)十字架の道でイエスとの再会
(5)イエスの十字架の死
(6)イエスの十字架の下に立つ悲しみ
(7)イエスの埋葬
マリアの生涯は、シメオンの預言の通りでした。しかし、聖母マリアは神への信頼を失わず、謙遜に、すべてを心に納め、ひたすら従順に、イエスの救いの業えの参与を果たしたのです。
第二バチカン公会議(2015年8月)
カトリックとは、ギリシャ語で「普遍的な」「世界的な」「公の」という意味をもつ形容詞「カトリコス」に由来します。古典ギリシャ語では、「特殊」の反対を意味し、「すべてに該当する」という意味で用いられていました。最初にこの語を使ったのはアンティオキアの聖イグナチオで、107年頃、スミルナの教会に宛てて書き送った手紙の中で
「キリストが、全(カトリック)教会の頭である」と記しています。
こうして、全地方に存在するキリスト教の教会全体を指して「カトリック教会」と言われるようになりました。しかし、本来1つであるはずのキリストの教会は、11世紀に、ローマ教皇の首位権を認めない東方諸教会と、16世紀には、プロテスタント諸教会、聖公会と分裂してしまいました。そして、「カトリック教会」とはローマ教皇を首長とする「ローマ・カトリック教会」だけを指すようになったのです。
カトリック教会の約2000年間の歴史の中で最も画期的な出来事と言われる第2バチカン公会議は、1962年からローマで開催されました。この会議は、325年の第1ニケア公会議から数えて21回目の公会議となり、教皇ヨハネ23世が「教会の現代化と現代世界への適応」を目指して開催を決定されたのです。
教皇は開会演説の中で、「カトリック教会内部の一致、カトリック者と他のキリスト者との間の一致、カトリック者とキリスト教以外の人々とを結び合わせる尊敬と善意による一致」を訴えました。ヨハネ23世はその翌年に亡くなりましたが、公会議はパウロ6世教皇によって引き継がれ、1965年に終了しました。その後の2人の教皇が、それまで教皇史になかった「ヨハネ・パウロ」を名乗っているのは、この公会議の精神を受け継ぐことを宣言してのことだったのです。
第2バチカン公会議では4つの憲章と、9つの教令と3つの宣言が公布されました。『カトリック大事典』によると、公文書の教説は、次のように要約されています。
(1) | キリスト中心。 イエスの死と復活という救いの秘儀は、宣教、教理、典礼、霊性、教育等のあらゆる営みの真髄である。 |
(2) | 聖書中心。 信者の一人ひとりが自ら直接、聖書を読み、学び、その教えを生活の場で実行するよう努める。 |
(3) | 典礼の重視。 典礼は神の民の全体が、それぞれの言葉を用いて積極的に行う共同体としての礼拝であり、教会の全活動の頂点である。 |
(4) | 神の民としての教会。 信者は皆、キリストの預言職、祭司職・王職にあずかる「神の子ら」であり、教会の諸活動の主体である。 |
(5) | 司教職の団体性の強調 教皇を囲む司教団は団体として行動する。 |
(6) | 各地域の教会の独自性、各文化独自の価値を尊重。 |
(7) | 教会外の人々への関心。 カトリックから分かれたキリスト教諸教会・教団、キリスト教以外の 諸宗教、すべての人に近づき、彼らと対話・協力し、 全人類の相互理解と一致のために働く。 |
(8) | 貧しい人々、虐げられた人々との連帯。 教会は、権力者の側にくみせず、「小さい人々」の代弁者となる。 |
(9) | 信教の自由の確認 |
(10) | 絶え間ない刷新をうたう将来志向の姿勢。 |
第2バチカン公会議から約50年を経た今、わたしたちは改めて公会議の内容を学び、深めていきたいものです。
聖書における「数」のはなし(2015年6月)
聖書には数字がよく出てきますが、シンボル的に使われていることが数多くあります。その意味を知ることで聖書がより解りやすくなるでしょう。
◆「1」
「1」は、唯一の神を指します。また、すべてのものは1つであり、一致を表しています。
◆「3」
「3」は、三位一体の神、神の世界を表しています。イエスは荒れ野で3回誘惑を受けられました。また、十字架で亡くなられた後、墓の中におられたのも3日間です。
◆「4」
「4」は、自然、神が造られた全世界を表す数とされています。四季、四方、四大元素などの自然があります。また、4福音書は世界の四方にイエスの福音を伝える書であり、救いのシンボルとなっています。
◆「6」
「6」は、完成を意味している「7」に1つ足りないので、不完全を表します。あまりよい数とはされていません。ヨハネ黙示録に獣の数字え666が出てきますが、これはキリスト教徒の敵を指していると言われています。
◆「7」
「7」は、聖書の中で最も大切な数で、完成、完全を意味しています。3は神の世界、4は自然を意味していますので、神の世界と自然の世界を合わせた完成が7ということです。7日目に神は天地創造の仕事を完成され、第7の日を祝福し、聖別され、1週間が7日となりました。聖書には7つのパン、7つの賜物など数多くの「7」という数字が出てきます。また秘蹟の数も7つです。
◆「8」
「8」は、新しいスタートを意味します。
洪水によって人類を滅ぼした神はノアを含む8人だけを助けて新しい人類を始めました。
また、ダビデ王は8人目の末っ子です。
主は週の初めの日、すなわち8日目の朝に復活され、その日こそが新しい時代の始まりとなりました。
◆「12」
「12」は、7と同じくらい重要な数です。ヤコブの12人の息子がイスラエルの12部族の祖となりました。
1年が12か月である、毎月神殿に奉仕する祭司も12グループに分けられていました。
イエスは12人を選び12使徒としました。
ヨハネの黙示録には新しいイスラエルを12の数で表しています。
◆「40」
「40」は、聖書の中であ一世代を表す数です。また、苦難、試練期間を表すとも言われています。
出エジプトの後の約40年間、シナイ半島を放浪したイスラエルの民は、たびたび神に背いたので、誰一人として約束されたカナンの地に入れませんでした。40年間は1つの世代が交代する期間だったのです。
ノアの洪水は40日間続き、モーセは40日間シナイ山上に留まり、イエスの荒れ野での断食は40日間でした。ですから40日間の四旬節があるのです。
6月の聖人 パドアの聖アントニオ(2015年6月)
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6月の聖人 パドアの聖アントニオ(6月13日) 1195年、ポルトガルのリスボンに生まれた。 15歳のとき、神に献身を願いアウグスチノ会に入会した。 司祭となったが、25歳のときコインブラでフランシスコ会殉教者の遺骨を前に黙想し、 アフリカ宣教えの熱い望みを抱くようになり、フランシスコ会に移ることを許された。 翌年、殉教の覚悟でモロッコに渡ったが、まもなく病気になりイタリアに帰された。 アッシジで聖フランシスコに接し、その精神をくみとったのもこの頃である。
1222年、イタリア北部フォルリ市で修道司祭として暮らしていた彼は、 ある日、新司祭祝賀の席上、はからずも長上から説教を命じられた。 そこで聖霊に満たされて人々の心を動かす話をした。
これを機に「生ける福音」を語る説教家としえ管区長から巡回説教師に任ぜられ、 イタリアやフランスを巡って福音を伝え、無数の人々を回心に導いた。
1231年6月13日、36歳の若さで亡くなり、その遺骸はイタリアのパドアの聖堂に安置、 死後1年を経ずに列聖された。その墓では数多くの奇跡が起こったと言われている。
「典礼暦年」~教会カレンダー~(2014年12月)
教会は、イエス・キリストの救いの業を、1年を通して記念し、祝っています。教会の暦は毎年「待降節第1主日」から始まり、「王でるキリストの祭日」(年間第34週)の後の土曜日で終わります。
2014年は11月30日からB年が始まりました。B年とはマルコ福音書が主に朗読される年を言います。ちなみに、A年はマタイ福音書、C年はルカ福音書が主に朗読されます。ヨハネ福音書は毎年、四旬節や復活節などに朗読されます。添付の図は1年間の典礼暦年を表したものです。典礼暦年は大きく以下の3つに分けられます。
(1) | 典礼暦年の頂点、「復活の主日」(春分の日の後ろに来る満月直後の日曜日・移動祝日)を中心とした前後の「四旬節」と「復活節」で、過越しの神秘を祝い記念する期間。 |
(2) | もうひとつの頂点である「主の降誕の祭日」(12月25日・固定祝日)を中心としたその前後の「待降節」と「降誕節」。 |
(3) | (1)と(2)の4つの季節以外の期間である「年間」。 |
わたしたちは、この1年を周期として、イエス・キリストの受肉・降誕・公生活・受難・復活・昇天・聖霊降臨、そして神秘体験を、主の来臨を待望しつつ祝っているのです。典礼暦年は、信仰生活の基盤であると言えるでしょう。
「死者の月」とは(2014年11月)
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○11月1日は「諸聖人」の祭日
カトリック教会では、11月1日を「諸聖人」の日として祝います。聖人とは、キリストへの信仰を持ってこの世の旅路を歩み通し、今は天の御父のもとで永遠の生命にあずかっている人たちのことです。この日には、特定の聖人だけでなく、名前が知られている聖人、あまり知られていない聖人など、すべての聖人をお祝いします。
○11月2日は「死者の月」
また教会は、諸聖人の祭日を祝った翌日の11月2日を、「死者の日」として記念します。亡くなったすべての人が、神さまの憐れみによって永遠の安らぎを得ることができるようにと特別に祈る日です。
死者のための祈りが典礼の中に現れたのは、3世紀の初め、地中海に面したカルタゴにおいてです。もともと死者のために祈る習慣は、初期キリスト教の時代からあり、4世紀には東方教会で、8世紀には西方教会において、ミサの奉献文に取り入れられるようになりました。
現在の「死者の日」の起源は、998年にフランスのベネディクト会・クリューニー修道院において、この日を帰天したすべての信徒のための記念日と定めたことにあります。そして、この習慣は徐々に教会全体へと広まっていきました。
○11月は「死者の月」
日本では「死者の月」と言っていますが、この表現はヨーロッパやアメリカでは使われず、「霊魂の月」または「魂の月」と言う言い方をします。この表現をすることで「死」は終わりではなく新しい始まりであり、「死」の後には肉体を離れた「永遠の生命」があるということを示そうとしているのでしょう。
そして、わたしたちは生者と死者との連帯関係にあり、その連帯関係は「聖徒の交わり」を土台としています。「聖徒の交わり」とは「聖なるものの分かち合い」・「聖なる人々の交わり」という意味を持ち、これがまさに「教会」なのです。深い敬愛の心をもって祈る死者のための祈りは、同時に、死者がわたしたちのために祈り、執り成しをしてくれるという意味合いをも持ちます。
聖人と福者(2014年8月)
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○聖人ってどんな人
殉教、または敬虔な信仰をもって生涯を送ったゆえに崇敬を受ける人を聖人と言います。人間的には完全ではないかもしれませんが、イエス・キリストを模範として、生涯を神に委ねた人と言えるでしょう。
○聖人の始まりは
聖人と呼ばれる人々が、初めてキリスト教の歴史の中に現れ始めたのは、ローマ帝国によるキリスト教迫害時代のことです。信仰のために死をも恐れなかった殉教者たちが、キリスト教共同体の中で特別の存在だったのは当然のことでしょう。迫害時代、殉教者は全て聖人とされ、天国にいると考えられていました。
4世紀になりキリスト教がローマ帝国の国教となって迫害、殉教がなくなると、生涯を信仰に生き、その生き方によって神を証しした人を聖人として崇敬し、とりなしを願う信仰が出てきました。
中世に入ると、修道院創立や貧しい人々に奉仕した人たちが聖人として崇敬されるようになり、「典礼において記念されるべき人物」を意味するようになります。
その後、1234年にグレゴリウス9世発布の教令によって、人を聖人の列に加える権限が教皇に限定され、14世紀初頭までに、列聖が行われるための調査の正式な手続きが定められてきました。
○ヨハネ・パウロ2世の列聖者数
教皇ヨハネ・パウロ2世(在位1978~2005)は在位中、482名と非常に多くの人々を列聖しています。それは、現代の信徒たちに聖人たちの生き方を指し示すことにより、キリスト者としての聖性の希望と励みを与えたいという望みからでした。
○聖人はモデル
現代は生き方のモデルを喪失した時代とも言われます。キリストの愛に生き、闇の中に希望の光と喜びを見いだした聖人たちに学ぶことは、最終的には「キリストに倣う」ことにつながっていくでしょう。
○列福とは
聖人の位にあげられる前提として、その生涯が聖性に特徴づけられるものであた人が福者と呼ばれます。そして福者の列に加えられることを「列福」と言います。
○福者になるまで
福者になるためには、殉教者を除いて、一つの奇跡が必要ですが、調査委員会を中心にさまざまな資料を集め厳密に調べます。その最終調査資料に基づき、教皇庁列聖省の専門委員会を経て、同省の枢機卿委員会の会議を通った後、教皇が列福の教令に署名し、列福式において「福者」と宣言されます。マザー・テレサ(1910~1997)は、死後異例の早さで2003年に列福されました。
祭服のはなし(2014年6月)
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祭服(Vestments)とは、典礼が行われる時に、司式をする司祭、またその奉仕をする助祭が身に着ける特別な衣装のことです。
【祭服の歴史】
初期のキリスト教共同体には祭服はありませんでした。正式な祭服が作られ始めたのは5世紀ごろと言われています。
第二ヴァチカン公会議後の典礼刷新により、派手な衣装や不要なものは廃止され、簡素化されて現在のような祭服となりました。
【祭服の種類】
アルバ(Alba)
もともとローマ人が下衣として用いていた、白い布で作られた全身をすっぽり覆う長服のことです。Albaとはラテン語で「白い」という意味です。
アミクトゥス(Amictus)
アルバの下に、首回りと肩を覆うようにして着ける四角い布のことです。近年では、円形のアミクトゥス・ケープもあります。
チングルム(Cingulum)
アルバの長さを調節したり、形を整えるための腰帯のことです。修道士たちが、修道服を引き締めるために用いていた縄に、その起源があります。
カズラ(Casula)
カズラとはラテン語で「小さな家」を意味します。ゆったりと体全体を覆う祭服です。「神の家」の中で、司式者を示すために用いられる、司教・司祭固有の服装です。
ストラ(Stola))
ストラは、司教と司祭に固有な地位を表す、細長い帯状のものです。Stolaはギリシャ語で、十字架を意味する「スタウロス」という言葉から来ています。通常カズラの下につけられています。助祭は斜めに着用します。
【ストラとカズラの色】
伝統的にカトリック教会では、白・赤・緑・紫の4色を中心に用いています。
白・・・神の栄光、勝利、復活、喜び、清らかさの象徴です。降誕節、復活節、聖母や天使の祝日に、また洗礼、堅信式や結婚式などに用います。
赤・・・火と血を意味し、受難の主日、聖霊降臨、聖金曜日、殉教者の祝日などに用います。
緑・・・新芽の色で、希望、堅実さ、忍耐を表し、祝祭日でない年間主日に用います。
紫・・・回心、節制、悲しみを表す色で、待降節、四旬節に用います。また死者の典礼にも用います。
黒・・・以前は、黒の祭服もありましたが、黒は窮極の色で復活の信仰を強調するため、ご葬儀は白か紫を用いるようになりました。
これらの色がいつ用いられるかについては、「ローマ・ミサ典礼書の総則」の中に規定(346条)があり、これに従って、毎日の祭服の色が決められています。
3つの油(2014年4月)
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聖週間中の聖木曜日、またはそれに近い日の午前中に、教区のすべての司祭が司教座聖堂に集まり、司教の司式で聖香油ミサが行われます。
そのミサの中で、司教によって「聖香油」が聖別され、「洗礼志願者の油」と「病者の油」が祝福されます。これら3つの油は1年間、司祭によって各小教区で使われるものです。
聖香油はオリーブ油に香料バルサムを混ぜたもので、堅信式、叙階式、幼児洗礼式のとき等に塗油されるものです。聖霊をいただくことのしるしとして聖香油の塗油を受けますが、それは、わたしたちがキリストのために聖別され、キリストの使命を果たすために生きるよう招かれたということです。
洗礼志願者の油は、受洗者が神の子として新たに生まれる前に、悪霊の力から開放され、罪を放棄することができるように塗油されるものです。
病者の油は、使途ヤコブの手紙に「あなたがたの中で病気の人は、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい(5・14)とあるように、病気の人が癒され、また罪のゆるしを受けることができるよう、心と体に癒しと力を与えるものです。
「聖別」と「祝福」
「聖別する(Consecratio))」とは、そのものを聖なるものとして別にする、そのためだけに使い、他の目的には使用しないという意味であり、聖変化、教会堂の献堂、司教・司祭の叙階、奉献生活者の奉納などの時にするものです。
「祝福する(Benediction)」とは、人に対しては神の恵みを願うものです。また、建物、教会付属の品、信心用具などに対しては、それを使う人に神の恵みがあるように願うためにするものです。
河原町教会聖堂は聖別献堂されたもので、12使徒の上に建てられたことを表すために、そのしるしとして、教会堂の柱に十字架が刻まれた12のろうそく台があります。
ロザリオの祈り(2013年10月)
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ロザリオの祈りは、12世紀に生まれたとされ、祈りの形を整えながら、愛し守られて、幾世紀にもわたって教会に受け継がれてきました。157年、教皇ピオ5世によって10月7日がロザリオの聖母の記念日に制定され、ロザリオの祈りはさらに全教会的なものへと高められました。
また、2002年10月、教皇ヨハネ・パウロ二世は使徒的書簡「おとめのアリアのロザリオ」を発表し、ロザリオの祈りをキリスト教的祈りの中で最も優れたものとして、その祈りの実践を強く勧められました。同時に、それまでの「喜び・苦しみ・栄え」の3つの神秘に、新たに「光の神秘(啓示の神秘)」を加えられました。
わたしたちにとってロザリオを唱えることは、イエスに最も近かったマリアのまなざしを通して、マリアの心とともに、キリストの生涯におけるさまざまな場面を「思い起こし」「黙想する」ことであると言えます。
教皇ヨハネ・パウロ二世はその書簡の中で「マリアに伴われながら、たえずキリストのみ顔を黙想するロザリオという霊的道行において・・・・・・わたしたちは自然にキリストの生涯へと導かれ、その思いを『呼吸する』ようになるのです」と記し、わたしたちにロザリオの祈りの神秘性を指し示しています。
10月はロザリオの月です。どのような時もキリストに全面的に従われたマリアの取次ぎにより、自らの重荷をすべて主にゆだね、共に祈りましょう。
「ロザリオほど、イエスの生涯とマリアの生涯が深くひとつに結ばれているものはありません。マリアはキリストのうちにのみ、そしてキリストのためにのみ生きたからです」(教皇ヨハネ・パウロ二世)
聖母の被昇天(2012年12月)
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8月15日は「聖母の被昇天」の祭日です。マリアが霊魂も肉体もともに天に上げられたという協議で、1950年11月1日に、教皇ピオ12世(在位1939~1958)が全世界に向かって、処女聖マリアの被昇天の協議を公布しました。
ピオ12世は「無原罪の神の母、終生処女であるマリアがその地上の生活を終わった後、霊肉とともに天の栄光に上げられたことは、神によって啓示された真理であると布告し、定義する」と宣言されました。
聖書の中で、聖母被昇天については直接記されていませんが、カトリック教会は何世紀にもわたって伝達されてきた伝承(聖伝)を聖書とともに大切にしてきました。この聖母の被昇天の協議も、神から啓示された伝承の一部分であることをかつでの司教たちが一致して認め、教皇ピオ12世が教会の教義であることを公布したものです。
聖母の被昇天への信仰は、マリアだけが特別な存在だと言い表すものではありません。キリストによる救いにあずかる人たちの象徴として、信じるすべての人たちの救いへの希望を表現するものです。聖母の被昇天のミサの集会祈願はこのことを次にように教えています。
「全能永遠の神よ、あなたは、御ひとり子の母、汚れのないおとめマリアを、かだらも魂も、ともに天の栄光に上げられました。信じる民がいつも天の国を求め、聖母とともに永遠の喜びに入ることができますように。」
アシジの聖フランシスコ(2013年6月)
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聖フランシスコは、「平和を願う祈り」を世に残した、中世イタリアの聖人です。アシジの裕福な織物商家に生まれ、若い頃は自由奔放な日々を送っていました。騎士を夢みて対ペルシア戦に従軍しますが、1年間捕虜の身となった後重病にかかります。その間、心を神に向けて人生や死について考え、神の招きを受けてアシジに戻ります。1206年に聖ダミアノ教会で「早く行って私の家を修繕しなさい。今にも倒れそうだから」との主の声を聞いたフランシスコは、全てを捨てて貧しい人への福音、病人の看護、教会の改善に全力をささげました。
キリストの言葉に従順に生きる彼に感化を受けた人々が次第に集い、1210年に「小さき兄弟会(現フランシスコ会)」を創立、清貧と愛に根ざした神との深い交わりは、人々の心を強くとらえ信仰へと導きました。「太陽、月、星、水、大地、人間・・・死まで」に「兄弟姉妹よ」と呼びかけ、神への壮大な賛歌をささげています。「弱者への献身・病者への慈愛」の実践に生き、1224年に病の苦しみの中で聖痕を受けたフランシスコは、その2年後44歳で生涯を閉じました。
教皇フランシスコは、選出決定の際に一人の枢機卿から「貧しい人々のことを忘れないでください」と言われ、その時に自分の心に強く入ってきた名前が、アシジの聖フランシスコであった、と語っています。神の導きに従って平和を愛し、貧しく慈愛にみちた聖フランシスコの生き方は、わたしたちにとって信仰の模範であり、力と慰めです。
聖霊降臨(2013年5月)
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5月19日は聖霊降臨の主日です。主のご復活から50日、この日をもって復活節は終わりを迎えます。
復活したイエスは40日にわたって弟子たちに現れ、神の国について話されましたが、天に上げらあれる前に、彼らに「聖霊による洗礼」を約束します(使徒言行録1・3-4)。この約束はユダヤ教の五旬節(ペンテコステ)の日に実現します(2・1)。
大音響と突風のうちに、約束された聖霊が舌のような形で、一つになって集まっている弟子たちの上に注がれ、彼らをキリストの復活の証人として力強く立ち上がらせました(2・1-3、32、3・15)。また、彼らは聖霊を受けた瞬間から、当時の地中海およびオリエントの諸言語で語る能力を与えられました(2・4)。まさにこの時から、エルサレムとその周辺を超えて、「地の果てまで」(1・8)弟子たちによって福音が宣べ伝えられることになるのです。
聖霊降臨の主日は、教会の誕生日とも言える大切な祭日なのです。
十字架の道行(2013年3月)
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イエスはエルサレムの大祭司カイアファの館で不法な裁判を受け、ローマ総督ピラトから死刑を宣告され、十字架を担い、十字架につけられて息を引き取り、墓に納められました。
「十字架の道行」は、このイエスの受難の道のりを14の場面(留)に分けて、ひとつひとつたどりながら、心に届め、黙想する祈りです。カトリックの信徒にとって、親しまれている祈りの一つで、その起源は古く、初代協会の頃から信徒たちはエルサレムへ行き、イエス・キリストが実際にたどった道のりを歩む巡礼を行っていました。中世末期、教会の広がりとともに、聖地エルサレムに行くことのできない信徒たちのために、自分たちの居る場所でも「道行」をたどることができるように、絵画やレリーフによって祈る「十字架の道行」が設けられました。18世紀、教皇クレメンス12世の時代に、現在の14留の祈りをささげるようになったと言われています。
河原町教会の聖堂の南側の窓のステンドグラスに「十字架の道行」の14留と、ご復活(第15留)が描かれています。また、四旬節期間中、両サイドの窓に木製のレリーフが飾られます。
河原町教会では四旬節の間、毎週金曜日18:00から「十字架の道行」の祈りをしています。主イエス・キリストとともに歩きながら、復活の希望の光を求め、ともに祈りましょう。
聖フランシスコ・ザビエル(2013年1月)
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聖堂入り口横にある殉教者の間(ゆるしの秘蹟を受ける部屋)の一番奥に「聖フランシスコ・ザビエル像」が飾られています。原画は神戸市立博物館の所蔵で、重要文化財に指定されています。河原町教会のものは2008年に制作された公式複製画です。光輪をつけ、手は神への燃える愛を象徴する赤い心臓を抱き、十字架のイエス様を見上げ、口からは「満ちたれり、主よ満ちたれり」というラテン語文を発しています。像の下に「さんふらんしすこさべりうすさからめんと」と読める万葉仮名を記した聖画像です。江戸時代初期の作品で、当時の日本画の最高峰狩野派の狩野源助の作と伝えられています。また、この作品高山右近の旧領、千提寺(現茨木市)の旧邸に伝わった「開けずの箱」に秘匿されていたもので、大正9年(1920年)の調査で「マリア十五玄義図」などとともに発見されました。禁教による破棄をまぬがれた数少ない聖画で、江戸初期の洋風画として重要な作品です。
聖フランシスコ・ザビエル(1506年 スペイン生まれ)
記念日:12月3日(日本の守護聖人、当教会守護聖人)
1549年8月15日 (聖母被昇天の祭日) | 鹿児島に上陸 |
1552年12月3日 | 中国上川島で帰天 |
1622年3月12日 | 教皇グレゴリオ十五世により列聖 |
主の公現(2013年1月)
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2013年1月6日は主の公現の祭日です。「公現」とは、「顕現」を意味するギリシア語の「エピファネイア」に由来し、救い主が神から遣わされて人類のうちに顕現し、イエスのうちに現された神の栄光をたたえる日として祝われます。
聖書には、東方に住む占星術の学者たちが、救い主の誕生を知らせる「星」の動きを見て、その星に導かれてユダヤにやって来たと書かれています。この学者たちは異邦人であり、本当の意味での人間の救い主に出会うことを切望する人類の代表だと言えるでしょう。彼らが東方の国から星によって導かれてきたということは、明るい昼間ではなく、暗い夜の間に旅をしてきたということかもしれません。
昼間移動するほうが、周りがよく見えて道に迷わないように思われますが、どこまで行っても同じような荒涼とした土地を旅するとき、昼間はむしろ迷いやすく、夜に輝く星によって導かれるほうが確実です。
私たちの人生においても唯一の真実であるものを求めていくとき、目がよく見えるということは、実はそれ以外のものも見えてしまい、本当の真実が何であるかを見失ってしまう可能性が大きいのではないでしょうか。
ヘロデと同じように、目に見える自分の地位、富、知識、業績、信念などに目を奪われ、人間的なものだけを優先して頼って生きていくことになりがちです。わたしたちは目に見える不安定な自分自身に頼っている限り、いつまでたっても不安定です。しかし、人生の歩みの中で、自分自身を手放し、唯一の導き手であり、星であるイエスに従って歩むとき、その先に真理そのものであり、決して揺らぐことのない確実な方である神を見出すことができるのです。
主の降誕(2012年12月)
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12月25日は、主の降誕の祭日です。
約2000年前、イスラエルの人々はローマ帝国の圧制の中で貧しく苦しい生活を強いられ、そこから自分たちを救ってくれる救い主を待ち望んでいました。そこに神は、静かな方法で、一人の人間となってこの世に入って来られました。ベツレヘムで、宿屋には泊まるところがなかったので、貧しい馬小屋の飼い葉桶の中に横たわる乳飲み子としてお生まれになったのです。全能の神である方が、人々を救うため、あえて人間となられ、それも最も小さく、低く、か弱く、自分ひとりでは何一つできない無力な幼子となられました。そこには、強さ、豊かさ、能力、立派さなどはまったくなく、弱さ、貧しさ、無力さ、小ささだけしかありません。それは、どのような人でも畏れなく、幼子イエスに近づくことができるようになるためです。
神の御子が、無力な幼子として、家畜を養うための餌を入れる飼い葉おけにその身を置かれたのは、わたしたちを養うための食べ物、わたしたちを生かすためのいのちとなられるためでした。神はわたしたち一人ひとりをあまりにも愛するがゆえに、このようにしてわたしたちの中に入って来られたのです。それは、神のわたしたちへの限りない愛の現れであり、ひいてはイエスの十字架上の姿、わたしたちが今も祝っているミサへと重なっていきます。神の御子が人となられたのは、実にわたしたち人間を神の子とするためだったのです。
王であるキリスト(2012年11月)
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11月25日は「王であるキリスト」の祭日です。典礼暦最後の主日に「王であるキリスト」を祝い、栄光のうちにキリストが再臨されることを待望しながら1年の暦を閉じ、翌週から新しい典礼暦の始まりである待降節に入ります。
キリストとは、ヘブライ語のメシア(油を注がれた者、王、救い主の意味)という称号のギリシア語です。イエスは、「わたしの国はこの世には属していない」(ヨハネ18:36)と言われたように、人々が求めたこの世的な意味での王、救い主ではありませんでした。人々のために自分の力を使って、病人を癒やし、悪霊を追い出し、奇跡を行われたイエスは、最後までその力を自分のためにはまったく使われず、自分自身は無力そのものとなられ、十字架を受け入れられました。
イエスは神の子ですから、十字架の苦しみから自分を救うこともできたでしょう。イエスは、自分を救えないのではなく、自分を救わないことによって人々を救われたのです。十字架から降りないこと、自分の救いにおいて無力であることによって、わたしたちの救い主、王だということを表されました。
十字架の死に至るまでわたしたちの罪を担い、苦しみを共にしてくださるイエスの中に希望と救いを見て、そのイエスを信じるとき、わたしたちはすでに救われ、永遠のいのちに入っています。わたしたちの救いは、将来のことでも死語のことでもなく、今、神を信頼することによってもたらされるものなのです。
聖母マリアとロザリオ(2012年10月)
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10月はロザリオの月です。また、10月7日はロザリオの聖母の記念日です。ロザリオの信心は、聖母マリアに霊的なバラの冠をささげる祈りとして、幾世紀にもわたって大切にされてきました。
古来より修道院などで聖務日課、「教会の祈り」として150編の詩篇が唱えられていましたが、信徒の間ではラテン語で詩篇を唱えることが難しく、詩篇の代わりに「アヴェ・マリアの祈り」を150回繰り返すようになり、それが次第に浸透してきたものと考えられます。そして、聖ドミニコ(1170~1221)とドミニコ会士が異端と闘った時、「祈りの武器」としてロザリオの祈りをしたことから全教会に広まったといわれています。
ロザリオの祈りは、単純に「アヴェ・マリアの祈り」を繰り返し唱えるだけではなく、聖母マリアとともにキリストによる救いの出来事を黙想することができるようになっています。教皇ヨハネ・パウロ二世は、キリストの受肉と隠れた生活(喜びの神秘)の次に、キリストの公生活の中の重要な出来事(光の神秘)を付け加えられ、それからキリストの受難(苦しみの神秘)、復活の栄光(栄えの神秘)を黙想するよう勧められました。
これらの神秘を黙想することによって、イエスの最も近くにいて、イエスに従い、イエスの救いのわざに深く関わり続けられた聖母マリアを通してイエス・キリストとの一致に向かうことができるでしょう。
ロザリオの祈りを唱えながら、神の母、教会の母であり、天の栄光の中でイエスとともにおられる聖母マリアに、子としての愛と信頼をもって取次ぎを願いましょう。
十字架称賛(2012年9月)
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9月14日は十字架称賛の祝日です。キリスト教を公認したローマ皇帝コンスタンティヌスの母へレナが、西暦320年頃のこの日にエルサレムでキリストの十字架の遺物を発見したという伝承に基づいています。
十字架は、現代のわたしたちにとってはごく身近なものとなっていますが、
当時十字架刑は、極悪人だけに科される最も残酷で非人間的な極刑であり、目をそむけずにはいられないものでした。その十字架にイエスがかけられ、それを今わたしたちは崇拝し、称賛しています。それは、「信じる者」にとって十字架こそが神の愛と救いの完全な現れだからです。
イエスは、ユダヤ教の神を冒?する者、政治犯として十字架刑になりました。しかし実は、イエスを十字架につけたのは、人間が原罪として持っている憎しみや嫉みといった自己中心性だったのです。これは約2000年前の出来事ではなく、現代のわたしたちの問題そのものであると言えるでしょう。
イエスは、なされるがままに、人間の憎しみと暴力の結果である十字架を受け入れられました。自分のすべてを手放し、与え尽くし、そして弱さそのもの、無力そのものになられたのです。神の御子は、わたしたちを救うために人となられ、最後は自分を十字架につけたわたしたち人間をゆるすことによって、憎しみ、嫉み、暴力を内側から「ゆるし」と「愛」に変えられました。こうして、十字架という一見愚かなもの、つまずかせるものを、神は人間の救いの源とされたのです。
聖ペトロと聖パウロ(2012年12月)
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6月29日は、聖ペトロとパウロ使徒を祝う祝日です。彼ら2人は、1世紀にキリスト教の土台を造った偉大な聖人です。この2人を教会はずっと一緒に祝ってきました。それは、異なる使命を与えられていた2人ですが、彼らは共に教会の成長と一致のために命をかけて尽くしたからです。ペトロは「使徒たちの頭、教会のいしずえ」として、パウロは「異邦人の使徒」としての使命を受けていたのです。
ペトロは、ガリラヤ湖畔で弟アンドレと共に漁をしながら生活していました。彼が漁をしていたとき、イエスから「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」と言われ、イエスの後に従いました。彼の名はシモンでしたが、イエスから「岩」を意味する「ペトロ」という名前を与えられ、後にイエスから「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。・・・わたしはあたなに天の国の鍵を授ける」と約束され、教会の頭とされました。西暦60年代半ばの皇帝ネロによるキリスト教迫害の中、殉教しました。ペトロが処刑された場所にサン・ピエトロ大聖堂が建てられ、教皇職は「ペトロの座」とも呼ばれています。パウロは、小アジアのタルソス生まれで、最初サウロと呼ばれていました。彼はローマ帝国の市民権を持ち、有名な律法学者ガマリエルから律法を学んだ生粋のファリサイ派で、最初は徹底的にキリスト教を迫害していました。ある日、キリスト者を捕らえるためにダマスコに行く途中、突然天から、「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」というイエスの声を聞き、地面に倒れ、目が見えなくなりました。この復活のイエスとの出会いにより、彼は回心したのです。
その後、バルナバの協力によりアイティオキアを中心に宣教し、教会をたてていきました。パウロは3回の宣教旅行に出かけ、小アジア、ギリシア、マケドニアなど多くの異邦人にキリストの福音を宣べ伝えました。パウロが各教会に送った手紙は、まだ福音書が書かれていない当時の初代教会に大きな影響を与えました。ペトロと同じ頃パウロもローマで殉教しました。
聖週間(2012年3月)
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2012年の聖週間は、4月1日の受難の主日(枝の主日)から4月8日の復活の主日までです。
教会全体が典礼において、イエスの受難、死、復活に全てを集中していきます。聖木曜日の朝、各司教座聖堂において聖香油のミサが行われます。その中で司祭団は司教の前で司祭叙階の日の”司祭の約束”を更新します。
また、洗礼、堅信、司祭叙階の時に用いられる聖香油が祝別され、洗礼志願者の油と病者の油が祝福されます。そして、典礼暦の頂点である「聖なる過ぎ越しの3日間」が始まります。
1日目は、木曜日の日没から金曜日の日没までの最後の晩さんからイエスの死、そして墓に葬られるまでです。教会の典礼では聖木曜日の「主の晩餐の夕べのミサ」に始まり、翌日15:00頃に行われるイエスの十字架の死を記念する「聖金曜日」(主の受難)の祭儀までです。聖金曜日には、祭壇布、ロウソクなどは置かず、「主の過越」を記念するミサは行われません。その日は過越の聖なる断食の日です。
2日目は、金曜日の日没から土曜日の日没までで、葬られたイエスの「不在」を静かに記念する「聖土曜日」です。その日も祭壇の飾りを取り除き、ミサもささげられません。
3日目は土曜日の日没から日曜日の日没までで、教会はこの夜、祝福された大きな復活のロウソクに火を灯し、復活徹夜祭を行い、翌朝の復活主日のミサ、そして復活主日の晩の祈りでこの日を締めくくります。
この復活徹夜祭の中で、キリスト教入信式(洗礼、堅信、聖体)が行われます。復活徹夜祭は、1年の典礼の中で最も盛大で、中心的な祭儀です。復活を祝う期間は、聖霊降臨の主日まで50日間続きます。